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浅間クラブマンレースを開催したオトコ
1958年頃

日本のレース黎明期に
レース屋と呼ばれた雑誌屋がいた
その名を、酒井文人と……云う。

©八重洲出版 

 

群雄バイクメーカー主催で開催された
浅間火山レースが2回目で終了し、
その後開催の見込みがないというときに、
一人のオトコが突っ走った。

アマチュアクラブマンレースを開催にこぎつけ、
その後、鈴鹿サーキットが開業するまでの数年間、
ロード、モトクロス、ドラッグレースと、種々の形態のレースを
開催し続け、日本のレース創世記であがき続けた雑誌屋がいた。

 

 

バイクやクルマ好きの方なら、大藪春彦氏の小説は読んだ覚えがあるだろう。
角川で映画化された「汚れた英雄」は、なんとなく知っている
……というひともいるだろう。

藤本も例に漏れず、耽読したクチであります。
主人公の北野晶夫が、まだくすぶりの頃、日本で初めてのバイクレースが
開催されると聞いて、いてもたってもいられなくなるが、
思うように参加できず……結局、初回と2回目が
当時、日本国内に数多く存在したバイクメーカーが手動で行われただけで、
3回目は中止……だが、噂だと、モーターサイクル連盟とかいう団体が、
クラブマン形式のレースを行うという。よっしゃ、そいつに出る……とまあ、
ハショリにハショってしまうと、そういうことになるわけだが、
当時、なんとなく読み流していたことが、あとになって、自分に深い関わりが
できるとは、当然のことながら、予想もしておりませんでした、ハイ。

このレースを開催したのが「酒井文人」というオトコ。
当時は、月刊モーターサイクル出版社を営む雑誌屋さんだった。
後に、ドライバーやサイクルスポーツ等の四輪&自転車雑誌を発行し、
八重洲出版にと社名が変わる……ンッ? 八重洲出版??
どこかで聞いた名前じゃござんせんか。

 

そうです。1980年に創刊されたCARBOYを発行したのが八重洲出版。

藤本は、当初アルバイトでCARBOYに入り、
徐々にその勢力を拡大していくこと(笑)になるわけだが、
当時、社長と呼ばれていた酒井文人さんは、派手なジャケットを着て、
「どうかね?」と声をかける、けったいなおっさんだった。
「はあ、ボチボチです」と、当たり障りのない返答をしていた藤本だが、
あるとき、このおっさんが、あの浅間の、あのクラブマンレースを
単独でシキったおっさんだと知ったときには、腰が抜けました。

あの、「汚れた英雄」にも出てきた、酒井というおっさんは、
この派手なジャケットがお気に入りにのおっさんだったなんて……。

急に興味が湧いて、いろいろと酒井文人という人間のことを調べてみた。

そうすると……出てくるわ、出るわ。
メーカー主導だったレースがあっけない幕切れを迎えたあと、
一念発起して、アマチュア主導のクラブマンレースを主催し、
それに続いて、全日本ドラッグレースの開催。東日本と西日本で予選を行い、
浜松の航空自衛隊の滑走路を使って全国大会を決行。

このあたりも「汚れた英雄」に描写されていた。

それにとどまらず、全日本モトクロスを大阪信太山で開催
……雑誌屋が、いつのまにかレース屋と揶揄されるほど、
黎明期の日本のレース界(当時、まだ4輪のレースは開催されていなくて、2輪が中心)で、
とんでもないオトコの行動が、その後のレース界に多大な影響を与えていった。

 

藤本にとっては、コペルニクス的転回だった。
初老の派手好きなおっさんが、とんでもないおっさんだった。


ま、その後も態度は改まることはありませんでしたが、
CARBOYという雑誌が、全国公募して行なったCARBOYゼロヨンや
ドリコンGPというイベントは、藤本が考えて、独自で作ってきたという
思いでいたものが、それよりはるか以前に実行していたオトコがいたということに、
心底ビックラこいてしまった。

CARBOYでチューニングというジャンルに足を踏み入れて、
自分が取材しているクルマが、実際に見れたりするショーが開催できないか?と、
当時の八重洲出版に掛け合ったけど

「ウチは雑誌屋であって、イベント屋ではない」

とケンもホロロに拒絶され、その後1年ほどして、OPTION誌が晴海で
「エキサイティングカーショー」というイベントを始めたとき、
非常に悔しい思いをしたことがある。

八重洲出版という会社は、どちらかと言えば、堅実な会社で、
CARBOYみたいな本を作る会社じゃない。
CARBOYだけが異端児だ……そんな風潮だったが、
本家本元の創業者が、20年以上前に「レース屋」と呼ばれていたとは。

でも、まあ、その後のCARBOYは、一般公募のイベントを次々と
打ち出していきがら、数万部だった当初の売上を、数十万部に膨らませていった。
いま考えると、創業者であるレース屋の酒井文人の敷いたレールが、
いつの間にか朽ち果て、廃線化していたものを、もう一度レールを引き直して、
再出発した、と考えられなくもない。

酒井文人さんからは、それっぽい話をされた記憶がない。
「なんだか、最近CARBOYは元気そうだね〜、フォッフォッフォ」と、
わけのわからないことを言いながら、派手なジャケットが
編集部内を並行移動していった記憶だけが残っている(笑)。

浅間火山レース、そしてクラブマンレースには、当時の錚々たるメンバーが
参加していた、そして、そのメンバーがそのまま4輪のレースが開始されると、
国産の4輪レースドライバーへと移行していくことになる。

FISCOで開催された日本グランプリ等は、このクラブマンレースのずっと後のことになる。
島国の2輪メーカーは、ヨーロッパのマン島へ遠征したり、
世界GPへのチャレンジを開始したりと、躍進を続けていくのだが、
その原点が、浅間にあったことは異論がないだろう。

ま、酒井文人という人間のことは、おいおいに書き記していこうと思うが、
とりあえず、知っておいてほしいと思って、ここに書き始めました。

クラブマンレースの当日は、まさかの台風17号の直撃で、レース場は水浸し。
もともと、アスファルトが敷かれているわけでもないコースで、雨が降り止まないなか、
レースを中止するかどうかの決断を迫られた酒井文人は、参加者の意向を汲んで、
決行を指示。一日中レインコートを着て立ち尽くしながら、頭の中を駆け巡っていたのは、
「二度とレースは開催するもんじゃない。レースは見て楽しむもの……」

だが、雨中のレースを終えたライダーたちが「また、来年も浅間で会おう!」と
晴れ晴れとした顔つきで、言い交わしているのを聞いて
……ま、そっから泥沼にズッポリとハマっていったわけですな(笑)

しっかし、CARBOYが良い子ゼロヨンを谷田部の自動車試験場で始める
20年以上前に、全日本ドラッグレースを企画&実行したおっさんがいたとは……。
血脈というのは、親族でなくても、受け継がれるものかもしれない(笑)

 

当時の様子は、酒井文人氏が亡くなられた後、
遺稿集として編纂された「生涯疾走」を
参考にさせていただきました。
レース屋と呼ばれた頃から、BMWを駆って、
全国を取材して回った雑誌屋の酒井文人氏の
原稿をまとめたものです。ちなみに、非売品です。

 



■ 今だから話せる秘話(笑) ■
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